近世|第5章 16世紀 — ルネサンスと宗教戦争
この章の狙い
要点: 16世紀のフランスは、前半と後半でまったく違う。前半はイタリアからの文化的な流入と王権の伸長、後半は40年近い内戦である。
そして言語の面で決定的なことが起きる。1539年、行政の文書をフランス語で書くことが定められた。ラテン語ではなく、フランス語が公の言語になったのである。
年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1450年代 | ヨーロッパで活版印刷が始まる |
| 1494年 | イタリア戦争が始まる(〜1559年) |
| 1515年 | フランソワ1世が即位。マリニャンの戦いに勝つ |
| 1516年 | ボローニャの政教協約。国王が司教の任命権を得る |
| 1517年 | ドイツで宗教改革が始まる |
| 1530年 | 王立教授団(のちのコレージュ・ド・フランス)の設置 |
| 1539年 | ヴィレル・コトレの王令。行政文書をフランス語で書くことを定める |
| 1536年 | カルヴァンの主著が刊行される |
| 1549年 | プレイヤード派の宣言。フランス語で詩を書くことを主張する |
| 1559年 | イタリア戦争が終わる。アンリ2世が事故死 |
| 1562年 | 宗教戦争が始まる |
| 1572年 | サン・バルテルミの虐殺(ぎゃくさつ) |
| 1589年 | アンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝が絶える |
| 1593年 | アンリ4世がカトリックに改宗 |
| 1598年 | ナントの王令。宗教戦争が終わる |
イタリア戦争と文化の流入
- 📘 イタリア戦争:1494年から1559年まで、フランスとスペイン・神聖ローマ帝国がイタリアの支配をめぐって争った一連の戦争のこと。
軍事的には得るものが少なかった。しかし文化の面での影響は大きい。
⚡ イタリアから入ってきたもの
- 建築と美術 — 城館(じょうかん)の様式が変わる。ロワール地方の城がその例にあたる。
- 人文主義 — 古代のギリシア語・ラテン語の原典に立ち返って読む態度。
- 詩の形式 — ソネットがフランスに入る。プレイヤード派がこれを用いる。
- 宮廷の作法 — 立ち居振る舞いと会話の型。のちの17世紀の宮廷につながる。
- 📘 人文主義:古代の文献を、後世の注釈ではなく原典で読み直そうとする学問の態度のこと。神学の枠の外に、独立した学問の場を作ろうとした。
印刷術と言語
活版印刷は、書物の値段と作り方を根本から変えた。写本の時代には数か月かかった複製が、はるかに速く安くなる。
⚡ 印刷がもたらしたもの
- 同じ本文が広く共有される。「決定版」という考え方が可能になる。
- 著者の名前が前に出る。
- 聖書が俗語で読まれ始める。これが宗教改革の広がりを支えた。
- 同時に、当局による統制の対象にもなる。検閲(けんえつ)が始まる。
1539年のヴィレル・コトレの王令は、裁判と行政の文書をフランス語で書くよう定めた。
⚠️ この王令の意味を大きく取りすぎない
- ラテン語を追放したというより、地方の言語ではなく王国の言語で書かせたという面が強い。
- 話し言葉が統一されたわけではない。南部ではオック語系の言語が話され続けた。
- ただし、公の場でフランス語が正式の言語になったという点は動かない。
- 文学の側では、1549年のプレイヤード派の宣言が、詩をフランス語で書くことを正面から主張する。
宗教改革とその広がり
- 📘 宗教改革:16世紀に、ローマ教会のあり方を批判して起きた運動のこと。信仰と聖書を中心に置き、教会の仲介(ちゅうかい)を減らそうとした。
- 📘 ユグノー:フランスのプロテスタント(カルヴァン派)を指す呼び名。
カルヴァンはフランス出身だが、ジュネーヴで活動した。その主著は最初ラテン語で書かれ、のちにフランス語に訳された。この訳が、フランス語の散文の形を整えるうえで大きな役割を果たしたと評価されている。
⚡ フランスで改革派が広がった層
- 都市の商工業者と職人。読み書きができ、印刷物に触れられた。
- 一部の貴族。南部と西部に多い。
- 宮廷の周辺にも支持者がいた。フランソワ1世の姉がその一人にあたる。
- 農村の大部分はカトリックのままだった。
宗教戦争
1562年から1598年まで、8回に分けて数えられる内戦が続いた。
| 出来事 | 内容 |
|---|---|
| 1572年 サン・バルテルミの虐殺 | パリでユグノーが大量に殺され、地方へ広がった。王家が関与した |
| 1576年以降 | カトリック側の同盟が結成され、王からも自立して動く |
| 1589年 | アンリ3世が暗殺される。ヴァロワ朝が絶える |
| 1589〜1594年 | プロテスタントのアンリ4世が王位を主張。パリは受け入れない |
| 1593年 | アンリ4世がカトリックに改宗 |
| 1598年 | ナントの王令 |
- 📘 ナントの王令:1598年にアンリ4世が出した法令。プロテスタントに信仰の自由と、一定の場所での礼拝、そして安全のための拠点を認めた。
⚡ ナントの王令が画期的だった点
- 国の中に2つの宗教が並存することを、法として認めた。
- ただし完全な平等ではない。カトリックが国の宗教であることは変わらない。
- 1685年にルイ14世が取り消す(第6章)。87年間の例外にあたる。
⚠️ 「寛容」を現代の意味で読まない
- 当時の寛容は、信仰の自由が正しいから認めるのではなく、内戦を終わらせるための現実的な妥協として出てきた。
- 同時代人の多くは、宗教の統一こそ望ましいと考えていた。
- とはいえ、この経験から、信仰と国家を切り離して考える議論が生まれてくる。
社会の条件
| 条件 | 内容 |
|---|---|
| 人口 | 15世紀後半から回復。内戦で再び打撃を受ける |
| 王権 | 前半は伸びる。後半は内戦で著しく弱まる |
| 宗教 | 同じ町の中に2つの信仰が並ぶ状況が生まれた |
| 出版 | 印刷物が広がり、同時に検閲も強まる |
| 言語 | 公の場でフランス語が正式の言語になる |
文学とのつながり
⚡ 16世紀の作品を読むときに要る背景
- 『エセー』 — 内戦のただ中で書かれた。判断を保留するという態度は、宗教的な確信が人を殺していた状況と切り離せない。
- プレイヤード派の詩 — イタリアから入ったソネットを、フランス語で書く。ヴィレル・コトレの王令と同じ方向にある。
- ラブレーの作品 — 人文主義の学問と、民衆的な笑いが同居している。神学部から批判を受けた。
- 印刷と検閲 — この時期の作家は、出版の許可と処罰の可能性を意識して書いている。
⚠️ この時代で混同しやすい形
- ヴィレル・コトレの王令を「フランス語を国語に定めた法」と考える。行政文書についての規定にあたる。
- サン・バルテルミの虐殺を宗教戦争の始まりと考える。1562年に始まり、虐殺は10年後の出来事である。
- ナントの王令を信教の自由の全面的な承認と考える。条件つきの並存にあたる。
- カルヴァンをフランスで活動した人物と考える。主にジュネーヴにいた。
宗教戦争が地域に残したもの
戦争が終わっても、社会は元に戻らなかった。
| 残ったもの | 内容 |
|---|---|
| 地域の分布 | 南部・西部・東部の一部に、プロテスタントの多い地域が残った |
| 記憶 | 虐殺と略奪の記憶が、地域ごとに語り継がれた |
| 警戒 | 両者が同じ町に住みながら、別の暦・別の学校・別の墓地を使う状況が続いた |
| 国家の役割 | 信仰の対立を国家が調停するという形が生まれた |
⚡ 1685年との関係で見る
- ナントの王令は87年で取り消される(第6章)。
- 取り消しの後、20万人前後が国外へ逃れた。多くが職人・商人・専門職だった。
- その地域の産業に打撃が残った。
- 18世紀の啓蒙の議論で、この出来事が繰り返し参照される(第8章)。
印刷と作家の立場
⚠️ 16世紀の作家が置かれた条件
- 出版には検閲があった。神学部や高等法院が問題視すれば、発禁や処罰がありうる。
- 国外での印刷と匿名(とくめい)という手段が、この時期から使われている。
- 後援者が要る。王や大貴族の保護がなければ、活動が難しい。
- だから、書かれた本文がそのまま作者の考えとは限らない。言い換え、慎重な留保、皮肉といった形が使われる。
⚡ 第5章の通過チェック
- イタリア戦争から入ってきたものを4つ言える
- 印刷術がもたらした4つの変化を言える
- 1539年の王令が何を定め、何を定めていないかを言える
- フランスで改革派が広がった層を3つ言える
- サン・バルテルミの虐殺の年と、宗教戦争の期間を言える
- ナントの王令の内容と、取り消された年を言える
- 当時の「寛容」が現代の意味と違うことを説明できる
次章へ
次章は絶対王政の確立である。内戦の後、フランスは中央集権に向かって一気に進む。
リシュリュー、フロンドの乱、そしてルイ14世。「王が国家である」という状態がどうやって作られたかを扱う。宮廷はヴェルサイユに移り、文学もその中に組み込まれていく。