19世紀|第13章 普仏戦争とパリ・コミューン(1870〜1871)
この章の狙い
要点: 2年に満たない期間に、フランスは帝政を失い、首都を包囲され、領土を割譲(かつじょう)し、そして内戦で数千から1万を超える市民を殺した。
この短い期間が、その後の半世紀を規定する。アルザスとロレーヌの喪失は「復讐(ふくしゅう)」の主題になり、コミューンの記憶は労働運動と共和政の関係を長く決めた。19世紀後半の文学は、この経験の後に書かれている。
年表
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1870年7月19日 | フランスがプロイセンに宣戦布告 |
| 1870年9月2日 | スダンで皇帝が捕虜になる |
| 1870年9月4日 | パリで共和政が宣言される。第三共和政の始まり |
| 1870年9月〜1871年1月 | パリ包囲。飢餓と砲撃が続く |
| 1871年1月28日 | 休戦。パリが降伏する |
| 1871年2月 | 国民議会の選挙。王党派が多数を占める |
| 1871年3月18日 | パリで蜂起。コミューンが成立する |
| 1871年5月21〜28日 | 「血の一週間」。軍がパリを制圧する |
| 1871年5月 | フランクフルト条約。アルザスとロレーヌの一部を失う |
| 1873年 | 賠償金の支払いが完了し、占領軍が撤退する |
戦争 — 6週間の崩壊
開戦から2か月足らずで、皇帝が捕虜になった。
⚡ なぜここまで速く敗れたか
- 動員の速度と鉄道の運用で劣っていた。プロイセン側は計画的に部隊を集めた。
- 参謀組織の差。作戦を立てる仕組みが整っていなかった。
- 兵器の一部では優位もあったが、砲兵で劣った。
- 政治的な準備がないまま開戦した。同盟国を得られなかった。
9月4日、パリで共和政が宣言された。臨時政府は戦争を続けることを選び、パリはドイツ軍に包囲される。
⚡ パリ包囲(1870年9月〜1871年1月)
- 4か月半にわたる包囲。食料が尽き、飢餓が広がった。
- 市民が国民軍として武装した。これがのちのコミューンの前提になる。
- 気球(ききゅう)による通信が行われた。
- 1月に降伏。臨時政府は休戦に応じた。
パリ・コミューン
2月の選挙で選ばれた議会は、王党派が多数を占め、講和を進めた。パリの側には、戦い抜いた自分たちが裏切られたという意識が強かった。
⚡ 3月18日に起きたこと
- 政府がパリの国民軍から大砲を回収しようとした。
- 市民が阻止し、衝突が起きた。政府はヴェルサイユへ退く。
- パリで選挙が行われ、コミューンが成立した。
- 📘 パリ・コミューン:1871年3月から5月まで、パリで成立した自治政府のこと。労働者・職人・共和派の急進層が中心だった。
| 実施したこと | 内容 |
|---|---|
| 政教分離 | 教会と国家の分離を宣言した |
| 教育 | 無償で世俗的な教育を掲げた |
| 労働 | 夜間労働の禁止、放棄された作業場の労働者による運営 |
| 家賃・質草 | 支払いの猶予(ゆうよ)と一部返還 |
| 議員 | 報酬を労働者の賃金並みに制限した |
⚠️ コミューンを単一の思想で説明しない
- 参加者の立場はさまざまだった。共和派、社会主義者、無政府主義的な傾向、愛国的な動機。
- 統一した綱領(こうりょう)があったわけではない。
- 72日間しか続かなかったため、実現したことは限られている。
- 後の時代が、それぞれの立場から意味づけてきた。
5月21日から28日にかけて、政府軍がパリに入り、市街戦の末に制圧した。この一週間で、数千から1万を超えるとされる人が殺された。多くの建物が焼失し、大量の逮捕と流刑(るけい)が続いた。
⚡ なぜ長く記憶されたか
- フランス人がフランス人を大量に殺した内戦にあたる。
- 労働運動にとっては弾圧の記憶、共和政にとっては秩序の証明として、正反対に語られた。
- 恩赦(おんしゃ)が完了するのは1880年。それまで多くの参加者が国外や流刑地にいた。
- 左右の政治的な対立の原点として、20世紀を通じて参照され続ける。
領土の喪失
フランクフルト条約により、アルザスとロレーヌの一部がドイツ帝国に割譲された。多額の賠償金も課された。
⚡ その後への影響
- 「失われた州」という言い方が定着し、回復が国民的な主題になる。
- 教育で繰り返し扱われた(第14章)。
- 1914年の開戦の背景の一つになる(第16章)。
- 1919年に返還され、1940年に再び失われ、1945年に戻る(第17章)。
社会の条件
| 条件 | 内容 |
|---|---|
| 政体 | 共和政が宣言されたが、議会は王党派が多数。当初は暫定的な体制だった |
| 対立 | 都市と農村、パリと地方の対立が先鋭化した |
| 軍 | 敗戦を受けて、徴兵制の改革が進む |
| 経済 | 賠償金を短期間で支払い切った。財政の余力があったことを示す |
| 記憶 | 敗戦と内戦という二重の傷が残った |
文学とのつながり
⚡ この時代の作品を読むときに要る背景
- 『脂肪の塊』(1880年)— 普仏戦争の敗走がそのまま舞台にあたる。占領下で、乗合馬車に閉じ込められた人々の偽善が主題になる。
- 自然主義の作品群 — 敗戦と内戦の後の社会を、病や退廃(たいはい)の比喩で捉える傾向が現れる。
- コミューンを扱った作品 — 同時代の作家の立場は割れた。擁護、沈黙、非難のいずれもある。
- 「復讐」の主題 — アルザス・ロレーヌをめぐる語りが、教科書と大衆文学の両方に入っていく。
⚠️ この時代で混同しやすい形
- 第三共和政の成立を1875年と考える。共和政の宣言は1870年9月4日、憲法的な諸法律が1875年にあたる。
- コミューンをドイツとの戦いと考える。フランス政府軍との内戦である。
- コミューンが数か月以上続いたと考える。72日間にあたる。
- アルザス・ロレーヌの全域が失われたと考える。ロレーヌは一部である。
戦争と情報
この戦争は、情報のあり方が問題になった最初期の例の一つにあたる。
| 面 | 内容 |
|---|---|
| 電信 | 外交文書が電信で伝えられ、その扱いが開戦の引き金の一つになった |
| 新聞 | 開戦を煽(あお)る論調が広がった。世論が政策を後押しした面がある |
| 包囲下 | パリでは気球と伝書鳩(でんしょばと)で通信した |
| 写真 | 戦争と内戦の記録が写真に残る。コミューン後の写真は、逮捕の資料にも使われた |
⚡ なぜ押さえるか
- 世論が戦争を後押しするという構図が、以後繰り返される。
- 第14章のドレフュス事件でも、新聞が決定的な役割を果たす。
- 「世論」という力の働き方を、具体例で見ておくと後の章が読みやすい。
コミューンの記憶をどう扱うか
⚠️ 語り方が立場によって正反対になる
- 労働運動の側 — 弾圧と犠牲の記憶。追悼の場が作られた。
- 秩序の側 — 無秩序の見本として語られた。
- 共和政の側 — 触れにくい過去にあたる。共和政の政府が鎮圧したからである。
- 恩赦(1880年)まで、公然と語ることが難しかった。
- レポートで扱うときは、「誰がいつ語ったか」を必ず添える。
⚡ 第13章の通過チェック
- 開戦から皇帝の捕虜までの期間と、敗因を4つ言える
- 共和政が宣言された年月日を言える
- パリ包囲の期間と、そこで起きたことを言える
- コミューンの成立の経緯と、実施したことを3つ言える
- 「血の一週間」がいつで、何が起きたかを言える
- コミューンが左右から正反対に語られてきたことを説明できる
- 領土の喪失がその後どう影響したかを言える
次章へ
次章は第三共和政の成立と定着である。王党派が多数の議会から始まった共和政が、どうやって70年続く体制になったのか。
無償・義務・世俗の初等教育、労働組合の合法化、そしてドレフュス事件と1905年の政教分離。現在のフランスの枠組みの多くが、この40年間に作られる。