17世紀|第5章 モリエール『タルチュフ』— 偽りの信心
この章の狙い
要点: この作品は5年間、上演を禁じられた。喜劇でありながら、王の庇護(ひご)を受けた劇作家の作品でありながら、封じられた。何がそれほど危険だったのか——それがこの章の中心の問いになる。
そしてもう1つ。タルチュフは第3幕まで登場しない。それまでの2幕は、彼について周囲が語るだけである。不在の人物が舞台を支配するという構造そのものが、読みどころになる。
作家 — 生涯と位置
- 📘 モリエール(Molière, 1622-1673):本名ジャン=バティスト・ポクラン。俳優・座長・劇作家を兼ね、自分の一座のために書いて自分で演じた。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1622年 | パリの裕福な室内装飾業者の家に生まれる |
| 1643年 | 一座を結成するが失敗し、借金で投獄される |
| 1645〜1658年 | 地方を巡業(じゅんぎょう)。この13年で舞台の技術を身につける |
| 1658年 | パリに戻り、王弟の庇護を受ける |
| 1664年 | 『タルチュフ』3幕版を上演 → 禁止 |
| 1669年 | 上演許可。大成功する |
| 1673年 | 『病は気から』の上演中に倒れ、その夜に死去 |
作者・演出者・主演俳優を一人で兼ねていることが、作品の性格を決めている。台詞は舞台で試され、観客の反応で書き直された。机の上で完成した戯曲ではない。
作品の成り立ち
上演をめぐる経緯そのものが、作品の一部になっている。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1664年 | ヴェルサイユの祝祭で3幕版を上演。宗教勢力の強い反発を受け、公開上演が禁止される |
| 1667年 | 題名と主人公の名を変えた5幕版を上演。翌日には再び禁止される |
| 1669年 | ようやく上演が許可され、大成功を収める |
モリエールは3度にわたって王に嘆願書を出している。その中で、自分が攻撃しているのは信仰ではなく、信仰を装う者だと繰り返し主張した。
この主張が本当かどうかが、この作品の最大の論点である。作品の中に、真の信仰と偽りの信仰を見分ける基準が示されているかどうか。示されていないなら、批判は信仰そのものに及んでしまう。
あらすじ
結末まで書いてある。
裕福な市民オルゴンの家。信心深さを装う男タルチュフが住み込んでおり、オルゴンとその母ペルネル夫人だけが彼を聖人だと信じている。妻エルミール、息子ダミス、娘マリアーヌ、義兄クレアント、侍女ドリーヌは、彼を偽善者だと見抜いている。
オルゴンは、娘マリアーヌを恋人ヴァレールと別れさせ、タルチュフに嫁がせようとする。
タルチュフはエルミールに言い寄る。それを隠れて聞いていたダミスが父に告発するが、タルチュフが大げさに自分を責めてみせると、オルゴンは息子のほうを疑い、勘当(かんどう)してタルチュフに全財産を譲る証書を書く。
エルミールは、夫に真実を見せることにする。オルゴンをテーブルの下に隠し、自らタルチュフを誘い出す。タルチュフは本性を現し、オルゴンはようやく目を覚ます。
だがすでに遅い。家も財産もタルチュフのものになっている。さらにタルチュフは、オルゴンが預かっていた危険な書類を持ち出し、国王に密告する。
一家が追い出される寸前、王の使者が現れる。王はタルチュフの正体をすでに見抜いており、彼は逮捕される。財産はオルゴンに戻され、マリアーヌとヴァレールの結婚が認められる。
登場人物
| 人物 | 位置 |
|---|---|
| オルゴン | 一家の主。最後まで欺かれる |
| タルチュフ | 偽の信心家。第3幕まで登場しない |
| エルミール | オルゴンの妻。冷静に罠を仕掛ける |
| ダミス | 息子。性急に告発して失敗する |
| マリアーヌ | 娘。ヴァレールと愛し合っている |
| クレアント | オルゴンの義兄。常識と節度を代表する |
| ドリーヌ | 侍女。遠慮なく本当のことを言う |
| ペルネル夫人 | オルゴンの母。息子以上に頑固 |
⚡ 喜劇の役割分担
- 妄執(もうしゅう)の人物(オルゴン)が一人いて、周囲を巻き込む。
- 常識の代表(クレアント)が理を説くが、聞き入れられない。
- 下の身分の人物(ドリーヌ)が、最も率直に真実を言う。
- 若い恋人たちの結婚が妨げられ、それが解決の目標になる。
主題とモチーフ
⚡ この作品の4つの主題
- 偽善 — 信心を利益の手段にすること。タルチュフは自分の欲望を宗教の言葉で正当化する。
- 盲信(もうしん) — 欺かれる側の問題。オルゴンはなぜ、誰の言葉も聞かないのか。
- 家父長の権力 — 娘の結婚、息子の勘当、財産の譲渡。すべて一人の判断で決まる構造そのものが問題として示される。
- 見ることと信じること — オルゴンはテーブルの下で「見る」まで信じない。言葉では動かない人間が、視覚によって動く。
| モチーフ | 働き |
|---|---|
| ハンカチ | タルチュフが登場するなり、ドリーヌの胸を隠せと言う。登場の第一声が偽善を示す |
| テーブル | 夫が隠れる場所。舞台上に「見る位置」が作られる |
| 証書 | 言葉ではなく文書が権利を移す。騙されたことが取り消せなくなる |
文体と形式
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| 形式 | 5幕、アレクサンドラン。悲劇と同じ韻文 |
| 規則 | 三単一を守っている |
| 語彙 | 悲劇と違い、日常語と具体的な事物が出る |
| 結末 | 王の使者による解決。外部からの介入で片づく |
- 📘 機械仕掛けの神:物語の内部の論理では解決できない事態を、外部からの介入で強引に収める手法。古代演劇に由来する語。
王の使者はこの手法にあたる。作品の中の力関係では、オルゴン一家は救われない。外から王が介入して初めて解決する。
この結末の読み方が分かれる。王への賛辞と読むか、それとも「王でも出てこなければ救われないほど事態は深刻だ」という含みと読むか。上演禁止を解いてもらう必要があった状況を考えると、判断は簡単ではない。
原文を読む
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 難度 | 中程度。日常語が多く、ラシーヌより読みやすい |
| 最初に読む場面 | 第3幕第2場(タルチュフの登場)。数十行で人物像が分かる |
| 次に読む場面 | 第4幕第5場(テーブルの下の場面)。喜劇の技術が凝縮している |
| 韻文 | アレクサンドランだが、会話のリズムに合わせて句切れが崩される |
戯曲は原文に入りやすい。分量が区切られており、台詞は話し言葉に近い。モリエールは、初級を終えた段階で原文に取りかかれる数少ない古典である。
解釈の分かれ目
| 論点 | 読みA | 読みB |
|---|---|---|
| 批判の対象 | 偽善者だけ。モリエール自身がそう主張した | 見分ける基準が示されておらず、信仰そのものに及ぶ |
| 王による解決 | 王への賛辞 | 皮肉、あるいは検閲を通すための妥協 |
| タルチュフの人物像 | 冷静に計算する詐欺師(さぎし) | 本当に欲望に駆られている。単純な偽善者ではない |
| オルゴン | 愚かな人物 | 信じたいという欲求を抱えた人物で、笑うだけでは済まない |
| エルミールの罠 | 賢明な解決 | 夫を納得させるために自ら誘惑するという、重い代償を伴う行為 |
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批判の対象をめぐる論点が中心である。当時の宗教勢力が反発したのは、まさにこの点だった。
レポートの切り口
⚡ 問いの立て方の例
- タルチュフが登場するまでの2幕で、彼はどう語られるか。誰が何と呼ぶかを集め、登場後の実像と比べる。
- 宗教の語彙は誰が使うか。「天」「神」「敬虔」などの語を全て拾い、話者ごとに分類する。タルチュフ以外も使っているかどうかが論点になる。
- クレアントの長台詞は機能しているか。常識の代表が誰にも聞き入れられない構造の意味。
- 王の使者の場面を削除したら、どうなるか。結末の必要性を、作品内部の力関係から検証する。
- エルミールの行為をどう評価するか。彼女の台詞の変化を、第4幕の前後で追う。
2番目の問いは、語彙を数えるだけで始められるので、最初のレポートに向く。
邦訳と参考文献
| 種類 | 内容 |
|---|---|
| 邦訳 | 岩波文庫ほかに収録。上演を意識した訳と、逐語的な訳がある |
| 原文 | 学習用の注釈つき版が入手しやすい |
| 上演 | 映像が多く残っている。テーブルの場面は演出によって印象が大きく変わる |
| 資料 | モリエールが王に出した嘆願書。作者自身の主張が読める一次資料 |
⚠️ この作品で混同しやすい形
- タルチュフが最初から登場すると考える。第3幕まで出てこない。
- 禁止が1回だと考える。1664年と1667年の2度あり、解禁は1669年である。
- 王の解決を素直な賛辞と決めつける。読みが割れている論点である。
- オルゴンを単なる愚か者と考える。信じたいという欲求を持つ人物として造形されている。
⚡ 第5章の通過チェック
- モリエールの経歴の特徴(三役の兼任と地方巡業)を言える
- 禁止と解禁の年を、3つの時点で言える
- モリエールが嘆願書で主張したことと、その主張の弱点を言える
- 主要人物8人の役割を、喜劇の役割分担として説明できる
- タルチュフの登場が第3幕である効果を言える
- 機械仕掛けの神を説明でき、結末の読み方が割れる理由を言える
- 原文で最初に読むべき2つの場面を言える
次章へ
次章から18世紀に入る。最初はモンテスキュー『ペルシア人の手紙』である。
『タルチュフ』が社会の内側から偽善を笑ったのに対し、この作品は外部の目を借りて社会そのものを奇妙なものとして描く。批判の方法が変わる。そしてその方法は、検閲を避けるための技術でもあった。