19世紀|第11章 スタンダール『赤と黒』— 上がる道を探す
この章の狙い
要点: この作品の主題は、「身分の低い青年が、王政復古期のフランスで上がるにはどうすればよいか」という一点に絞られる。答えは題名にある。赤(軍)は閉ざされ、黒(聖職)しか残っていない。
そして読みどころは心理の書き方にある。ジュリヤンの考えは、結論としてではなく、その場で動いていく過程として書かれる。迷い、決意し、翻し、後から理由をつける。この書き方が、後の小説の心理描写の原型になった。
作家 — 生涯と位置
- 📘 スタンダール(Stendhal, 1783-1842):本名アンリ・ベール。ナポレオン軍に従軍し、イタリアを愛した。生前の評価は低かった。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1783年 | グルノーブルに生まれる。7歳で母を失い、父と対立して育つ |
| 1800年 | ナポレオン軍に加わり、イタリアへ。生涯の憧れの土地になる |
| 1812年 | ロシア遠征に従軍。撤退の惨状を見る |
| 1814年 | ナポレオン失脚。イタリアに移り住む |
| 1822年 | 『恋愛論』。結晶作用の概念 |
| 1830年 | 『赤と黒』。同年、七月革命が起こる |
| 1839年 | 『パルムの僧院』 |
| 1842年 | パリで倒れて死去 |
「1880年ごろに読まれるだろう」と自ら書いた。実際、評価が定まるのは死後である。同時代の読者には、文体が素っ気なさすぎると受け取られた。
作品の成り立ち
実際の事件が下敷きになっている。神学生が、かつての雇い主の妻を教会で銃撃した事件が新聞に載り、スタンダールはこれを読んで着想した。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 副題 | 「1830年年代記」。同時代を書くという意識が明確 |
| 構成 | 2部。第1部が地方、第2部がパリ |
| 舞台 | 架空の町ヴェリエール → ブザンソンの神学校 → パリの侯爵邸 |
| 時代 | 王政復古期。貴族と聖職者が復権し、才能だけでは上がれない |
空間の移動が、そのまま社会の階層の上昇を示す構成になっている。
あらすじ
結末まで書いてある。
ジュリヤン・ソレルは製材業者の息子。腕力より記憶力に優れ、ラテン語の聖書を暗唱できる。ナポレオンを密かに崇拝しているが、王政復古期にはそれを口に出せない。
町の名士レナール氏の家庭教師になる。そして、義務のように、征服のように、レナール夫人に近づく。やがて二人は本気で愛し合う。関係が噂になり、ジュリヤンは町を出る。
ブザンソンの神学校へ入る。そこは陰謀と密告の場である。ピラール神父の後ろ盾を得て、パリのラ・モール侯爵**の秘書になる。
パリで、彼は貴族社会の作法を学ぶ。侯爵の娘マチルドは、退屈な社交界の中でジュリヤンの野心と誇りに惹かれる。二人は結ばれ、マチルドは妊娠する。侯爵は渋々、ジュリヤンに士官の位と領地を与えようとする。
その直前、レナール夫人の手紙が侯爵に届く。聖職者に書かされたその手紙は、ジュリヤンを「女を踏み台にして出世する男」として告発していた。すべてが崩れる。
ジュリヤンは町へ戻り、教会でレナール夫人を銃で撃つ。夫人は一命を取りとめる。
獄中で、彼は落ち着きを取り戻す。自分が本当に愛していたのはレナール夫人だったと悟る。裁判で、彼は減刑を求めるどころか、「私は自分の階級を裏切って上がろうとした農民の子だ。だから裁かれるのだ」という趣旨の弁論をする。
死刑が宣告され、執行される。マチルドは彼の首を自ら埋葬する。レナール夫人は3日後に死ぬ。
登場人物
| 人物 | 位置 |
|---|---|
| ジュリヤン・ソレル | 製材業者の息子。記憶力と野心と誇り |
| レナール夫人 | 町の名士の妻。自然な感情で愛する |
| マチルド・ド・ラ・モール | 侯爵の娘。英雄的なものに憧れ、自分を演出する |
| ラ・モール侯爵 | パリの大貴族。ジュリヤンの能力を認める |
| ピラール神父 | 神学校の校長。ジャンセニスム的な厳格さ |
| ヴァルノ | 町の成り上がり。金で地位を買う人物の代表 |
⚡ 2人の女性の対比
- レナール夫人 — 自然、罪の意識、本気。計算しない。
- マチルド — 演出、歴史への憧れ、誇り。自分の恋を16世紀の物語になぞらえる。
- この対比が、地方とパリ、自然と社交界という空間の対比と重なっている。
主題とモチーフ
⚡ この作品の4つの主題
- 上昇の道 — 才能はあるが身分がない青年に、何が可能か。軍(赤)が閉ざされた時代に、聖職(黒)が唯一の道になる。
- 偽装 — ジュリヤンは信じてもいない信仰を演じる。演じることが生き延びる技術になる。
- 本当の感情はどこにあるか — 征服として始まった恋が、獄中で本物だったと分かる。遅れて到来する真実。
- 社会の裁き — 裁判で裁かれているのは殺人未遂ではなく、身分を越えようとしたことである。
| モチーフ | 働き |
|---|---|
| ナポレオン | 口に出せない崇拝の対象。才能で上がれた時代の記憶 |
| 梯子(はしご) | 夜、窓から部屋へ入るときの道具。上昇の比喩でもある |
| 手紙 | レナール夫人の手紙がすべてを壊す。書かれた言葉が運命を決める |
文体と形式
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| 文 | 短く、装飾がない。当時の読者には素っ気なく感じられた |
| 心理 | 考えが動いていく過程を追う。結論だけを述べない |
| 語り手 | 介入する。読者に話しかけ、人物を批評し、皮肉を言う |
| 章の題 | 各章にエピグラフ(引用や警句)が付く。架空の出典もある |
- 📘 語り手の介入:語り手が物語を中断して、意見や説明を述べること。スタンダールでは、これが皮肉として働く。
「小説とは、道に沿って持ち歩く鏡である」という一節がよく引かれる。鏡が泥を映したなら、責められるべきは鏡か、道か——という趣旨で、写実的に書くことの弁明になっている。
原文を読む
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 難度 | 低めから中程度。文が短く明晰で、19世紀の長編では最も読みやすい部類 |
| 分量 | 長編だが、文の平易さで補える |
| 最初に読む場面 | 冒頭のヴェリエールの町の描写。皮肉の調子がすぐ分かる |
| 見どころ | 神学校の場面、法廷での弁論 |
| 進め方 | 原文で通読する最初の19世紀長編として現実的 |
バルザックやフローベールより先に読むべきである。語彙が広くなく、描写が短い。
解釈の分かれ目
| 論点 | 読みA | 読みB |
|---|---|---|
| 銃撃の動機 | 名誉を汚された怒りによる激発 | 意識的な自己破壊。上がる道が閉ざされた瞬間に、自ら終わらせた |
| 法廷の弁論 | 社会批判の表明 | 自殺の一形態。減刑を拒むための言葉 |
| ジュリヤンの人物像 | 野心的な英雄 | 偽善者。手段を選ばず、女性を道具にした |
| 語り手の位置 | ジュリヤンに共感している | 距離を取り、皮肉を向けている箇所が多い |
| 結末 | 真の感情の発見 | 社会に敗北しただけであり、救いはない |
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銃撃の動機をめぐる議論が中心である。作品は動機を説明しない。その空白に、読者が何を入れるかで読みが分かれる。
レポートの切り口
⚡ 問いの立て方の例
- 語り手の介入を全て拾う。どの人物について、どんな調子で介入するか。ジュリヤンへの距離が場面ごとに変わるかどうか。
- ナポレオンへの言及を数える。第1部と第2部で頻度と扱いがどう変わるか。
- レナール夫人とマチルドの手紙・台詞を比較する。語彙、文の長さ、比喩の種類。
- 銃撃の場面の記述を精読する。何が書かれ、何が書かれていないか。動機の空白がどう作られているか。
- エピグラフの機能。架空の出典を含むことの意味と、本文との関係。
1番目と4番目が、この作品らしい問いである。語り手と主人公の距離は、19世紀小説の分析で繰り返し使われる観点になる。
邦訳と参考文献
| 種類 | 内容 |
|---|---|
| 邦訳 | 岩波文庫ほかに収録 |
| 原文 | 全文が公開されている。電子テクストで語の検索ができる |
| 関連 | 『恋愛論』(1822年)。結晶作用の概念が、作中の恋愛の書き方と対応する |
| 事典 | 『フランス文学小事典(増補版)』の該当項目 |
⚠️ この作品で混同しやすい形
- 赤と黒を「情熱と死」などの抽象的な比喩と決めつける。軍と聖職という読みが標準である。
- スタンダールが生前に評価されたと考える。評価が定まるのは死後である。
- 語り手を中立と考える。介入し、皮肉を言い、人物を批評する。
- 銃撃の動機が説明されていると考える。説明されない。そこが論点である。
⚡ 第11章の通過チェック
- スタンダールの経歴(ナポレオン軍・イタリア)と、生前の評価を言える
- 副題と、下敷きになった事件を言える
- 筋を、家庭教師・神学校・パリ・手紙・銃撃・法廷の順で言える
- 2人の女性の対比を、性格と空間の両面で言える
- 4つの主題を言え、赤と黒の意味を説明できる
- 語り手の介入とは何かを説明できる
- 銃撃の動機をめぐる2つの読みを言える
次章へ
次章はバルザック『ゴリオ爺さん』である。同じ時代、同じパリ、同じく地方から出てきた青年が主人公になる。
だが入口が違う。スタンダールが個人の意識の内側から書いたのに対し、バルザックは建物と家具と金額の描写から入る。下宿屋の描写だけで数十ページ。環境が人物を説明するという方法が、そこにある。