19世紀|第14章 ボードレール『悪の華』— 都市と悪の詩学
この章の狙い
要点: 詩集には筋がない。だがこの詩集には構成がある。部立てを順に追うと、「上昇しようとして落ちる」という運動が見えてくる。
そしてもう1つ。この詩集は「美しくないもの」を詩の題材にした。都市の群衆、老人、腐りかけた屍(しかばね)、貧困、病。それまで詩に入らなかったものを入れたことが、近代詩の出発点とされる理由である。
作家 — 生涯と位置
- 📘 シャルル・ボードレール(Charles Baudelaire, 1821-1867):詩人・美術批評家・翻訳者。近代詩の出発点とされる。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1821年 | パリに生まれる。6歳で父を失い、母が再婚する |
| 1841年 | 素行を案じた家族により、インド洋への航海に出される。途中で引き返す |
| 1844年 | 浪費のため財産管理人を付けられる。以後、生涯金に困る |
| 1845年〜 | 美術批評を書く。「現代生活の画家」などで、現代性を論じる |
| 1857年 | 『悪の華』刊行。起訴され、有罪。6篇の削除を命じられる |
| 1861年 | 第2版。「パリ情景」の部を新設し、詩を追加する |
| 1867年 | ベルギーで倒れ、パリで死去。『パリの憂鬱』は1869年に死後刊行 |
批評家としての仕事が、詩と直結している。絵画について書いた「現代性」の概念が、そのまま詩の主題になっている。
作品の成り立ち
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 初版 | 1857年、100篇 |
| 裁判 | 公序良俗を害するとして起訴。罰金と6篇の削除 |
| 第2版 | 1861年。削除された詩を外し、新作を加え、「パリ情景」の部を新設 |
| 位置 | 詩集全体が1つの構成を持つという考え方を確立した |
フローベール『ボヴァリー夫人』と同じ1857年に起訴された。そちらは無罪、こちらは有罪である。同じ年に、小説と詩が別々の判決を受けた。
削除された6篇は、20世紀に入ってから正式に復権した。現在の版では収録されている。
全体の構成
第2版の部立てが、そのまま1つの運動を描いている。
| 部 | 内容 | 運動 |
|---|---|---|
| 憂鬱と理想 | 芸術・美・愛による上昇の試みと、そこから落ちる憂鬱 | 上がろうとして落ちる |
| パリ情景 | 都市の群衆、老人、盲人、娼婦(しょうふ)、労働 | 地上へ、街へ降りる |
| 酒 | 酔いによる忘却 | 別の手段を試す |
| 悪の華 | 悪と背徳(はいとく)の探究 | さらに下へ |
| 反抗 | 神への反抗 | 最後の抵抗 |
| 死 | 死による未知への出発 | 「新しいものを見つけるために」 |
← 横に動かして読めます →
⚡ 構成の読み方
- 理想へ上がろうとして失敗し、次々に別の手段を試し、最後は死に賭ける。
- 1篇ずつ読んでも分かるが、部の順に読むと違う相貌(そうぼう)が現れる。
- 「パリ情景」が第2版で新設されたことは重要である。都市が主題として前面に出た。
主要な詩
「万物照応」
- 📘 万物照応:色・音・香りが互いに対応し、目に見える世界の背後にある統一を指し示すという考え。象徴主義の出発点になる。
ソネット形式で書かれ、この考えがそのまま述べられている。14行と短く、原文で読む最初の詩として適している。
「アホウドリ」
甲板に落とされた海鳥が、水夫たちに笑われる。空では雄大なのに、地上では大きな翼が邪魔になって歩けない。詩人の境遇の比喩として読まれてきた。
「腐屍(ふし)」
道端の腐りかけた動物の死骸を、恋人に向かって長々と描写する。そして最後に、あなたもいつかこうなる、しかし私は詩によってあなたを残す、と告げる。
美しくないものを詩に入れるという方針が、最も極端な形で現れた詩である。当時の読者に強い衝撃を与えた。
「白鳥」
改造中のパリを歩きながら、檻から逃げた白鳥、追放された王妃、故郷を失った人々を次々に思い出す。都市の変貌(へんぼう)と喪失が重ねられる。
「通りすがりの女に」
雑踏(ざっとう)ですれ違った女性と、一瞬だけ視線が合う。もう二度と会えない。都市でしか起こりえない出会いと喪失を、ソネットに収めている。
「憂鬱」
同じ題の詩が複数ある。時間が止まり、空が蓋(ふた)のように低く垂れこめ、希望が敗れる。倦怠(けんたい)の状態を、具体的な事物の連鎖で表す。
主題とモチーフ
⚡ この詩集の4つの主題
- 憂鬱と理想の対立 — 上がろうとする力と、引き戻す重さ。詩集全体の骨格になっている。
- 現代性 — 移ろいゆく現在の中に、永遠の美を見出す。都市を歩く詩人という形を作った。
- 悪と美の共存 — 悪の中に美があり、美の中に悪がある。題名がそれを言い表している。
- 万物照応 — 感覚を越えた統一への信。象徴主義へつながる。
| モチーフ | 働き |
|---|---|
| 群衆 | 孤独が最も深まる場所。都市に特有の経験 |
| 香り | 記憶を呼び起こす。照応の考えと結びつく |
| 老いと腐敗 | 時間の作用を物として示す |
| 船・出発 | 未知への希求。最後の詩へつながる |
文体と形式
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| 詩形 | 多くがソネット。定型を守る |
| 音節 | アレクサンドラン(12音節)が中心 |
| 語彙 | 高尚な語と卑俗(ひぞく)な語を同じ詩の中に置く |
| 構成 | 詩集全体が1つの構成を持つ |
形式は保守的で、内容は破壊的である。この組み合わせが、この詩集の特徴になっている。古典的な詩形の中に、腐屍や娼婦を入れることで、落差が効果を生む。
原文を読む
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 難度 | 中程度。1篇が短いので、語彙は辞書で潰せる |
| 分量 | 1篇14行から数十行。原文の入口に最適 |
| 最初に読む詩 | 「万物照応」。ソネットで、内容が明示的 |
| 次に読む | 「アホウドリ」「通りすがりの女に」。どちらもソネット |
| 読み方 | 音節を数え、句切れを確かめる(フランス語の教材の詩法の節を参照) |
| 授業での扱い | 語学演習で扱われる |
詩は原文に最も入りやすい。短く、繰り返し読め、辞書を引く語の数が限られている。19世紀の長編小説より先に、詩から原文を始めてよい。
解釈の分かれ目
| 論点 | 読みA | 読みB |
|---|---|---|
| 構成の意図 | 部立ては明確な設計であり、順に読むべき | 編集の都合もあり、過度に体系を読み込むべきではない |
| 「腐屍」 | 美の永続を説く古典的な主題の変奏 | 女性の身体を素材として扱う視線への批判的読み |
| 都市の詩 | 近代都市の経験を初めて詩にした功績 | 見る者と見られる者の非対称(詩人は歩き、女性は見られる) |
| 裁判 | 表現の自由をめぐる事件 | 何が猥褻(わいせつ)とされたかを示す資料 |
| 象徴主義との関係 | 出発点 | 先駆であって、運動の一員ではない |
← 横に動かして読めます →
「腐屍」と都市の詩をめぐる批判的読みは、20世紀後半以降に強くなった。ジェンダーの視点からの読み直しは、文学理論の領域で扱う主題になる。
レポートの切り口
⚡ 問いの立て方の例
- 1篇のソネットを精読する。音節・押韻・句切れを確認し、形式と内容の対応を論じる。分量が限られるので、最初のレポートに向く。
- 「パリ情景」の詩に登場する人物を分類する。老人、盲人、娼婦、労働者。誰が見られ、誰が見ているか。
- 香りに関する語をすべて拾う。照応の考えが、具体的にどの詩でどう働いているか。
- 第2版で追加された詩を特定し、構成上の効果を検討する。「パリ情景」の新設が何を変えたか。
- 削除された6篇の共通点。何が問題とされたのかを、テクストから推定する。
1番目が最も確実である。詩1篇なら全数調査ができる。音節を数え、語を数え、それだけで論証の形が作れる。
邦訳と参考文献
| 種類 | 内容 |
|---|---|
| 邦訳 | 複数ある。訳によって印象が大きく変わるので、数種を比べる |
| 原文 | 全文が公開されている。対訳版も入手しやすい |
| 関連 | 『パリの憂鬱』(散文詩)。同じ主題を散文で書いた作品と比べられる |
| 批評 | 「現代生活の画家」ほかの美術批評。現代性の概念が説明されている |
⚠️ この作品で混同しやすい形
- 裁判で無罪になったと考える。有罪で、6篇の削除を命じられた。無罪は同年の『ボヴァリー夫人』。
- 象徴主義の作品と考える。象徴主義の宣言は1886年で、ボードレールは先駆にあたる。
- 形式も破壊的だと考える。詩形は古典的で、内容との落差が効果を生んでいる。
- 初版と第2版を同じものと考える。構成が変わっており、「パリ情景」は第2版で新設された。
⚡ 第14章の通過チェック
- ボードレールの経歴の節目を4つ言える
- 初版と第2版の違いを言える
- 6つの部立てを順に言え、全体の運動を説明できる
- 主要な詩を5篇挙げ、それぞれの内容を言える
- 万物照応と現代性を説明できる
- 形式が保守的で内容が破壊的である点を説明できる
- 都市の詩をめぐる批判的な読みを言える
次章へ
次章はモーパッサン『脂肪の塊』である。同じ19世紀後半、こちらは短編になる。
分量が短いことは、扱いが軽いことを意味しない。一台の馬車という閉じた空間に10人を乗せ、そこで起きる態度の変化だけで、階級と偽善(ぎぜん)の構造を描き切る。短編の技術が最も明快に見える作品である。