20世紀|第17章 ブルトン『ナジャ』— 偶然と狂気
この章の狙い
要点: この作品は、小説なのか、記録なのか、評論なのかが決まらない。そしてその決まらなさ自体が作品の主張である。
もう1つ特徴がある。本文に写真が挟み込まれている。建物、広場、人物、看板。ブルトンは「描写をしない」と宣言し、そのかわりに写真を置いた。この選択が何を意味するかが、この章の中心の問いになる。
⚠️ この章では本文を引用していない
- ブルトンの著作は著作権が存続している。引用の代わりに、内容の記述で扱う。
- 原文と訳文は各自で入手して読むこと。この章はそのための案内である。
作家 — 生涯と位置
- 📘 アンドレ・ブルトン(André Breton, 1896-1966):シュルレアリスムの中心人物。詩人であり、運動の理論家であり、組織者でもあった。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1896年 | 生まれる |
| 1916年ごろ | 第一次大戦中、神経科の病院に勤務。フロイトの理論を知る |
| 1919年 | 雑誌を創刊。ダダに合流する |
| 1920年 | 『磁場』(スーポーとの共著)。自動記述の最初の実践 |
| 1924年 | 『シュルレアリスム宣言』 |
| 1928年 | 『ナジャ』 |
| 1930年 | 『第二宣言』。運動内部の分裂と除名が続く |
| 1941〜1946年 | アメリカへ亡命(ぼうめい) |
| 1966年 | 死去 |
戦時中の病院勤務が出発点にある。精神を病んだ兵士の言葉に触れた経験が、理性の統制を外した言葉への関心につながった。
作品の成り立ち
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 刊行 | 1928年 |
| 素材 | 1926年10月の、実在の女性との10日間ほどの交際 |
| 図版 | 約50点の写真が本文に挟まれている |
| 改訂 | 1963年に著者自身が改訂版を出している |
モデルとなった女性は実在する。作品の後半で、彼女が精神病院に収容されたことが述べられる。実在の人物を素材にしたことが、後述する批判の根拠になる。
改訂版があることは重要である。同じ作品でも版によって本文が違うため、レポートでは使用した版を明記する必要がある。
構成と内容
3つの部分からなる。
| 部分 | 内容 |
|---|---|
| 前半 | 「私は誰か」という問いから始まる。以後、著者が体験した奇妙な符合(ふごう)や偶然の出来事が、順序立てずに並べられる |
| 中間 | ナジャとの出会いから別れまで。日付つきの記録の形をとる。彼女の言葉、絵、振る舞いが記される |
| 後半 | 別れの後の省察。彼女が病院に収容されたことが述べられ、精神医学への激しい批判が展開される。最後は美をめぐる一句で締めくくられる |
中間部だけが「日記」の形をしている。前後は日付を持たない。この構造の非対称が、作品のジャンルを決めがたくしている。
出会いの内容
ナジャは、パリの路上で出会った女性である。著者は彼女に強く惹かれる。理由は美貌ではなく、彼女が世界を別の仕方で見ているように思われたからである。
彼女は予言のようなことを言い、絵を描き、しばしば脈絡のない連想を口にする。著者はそれを、理性の統制を離れた精神の現れとして受け取る。
やがて彼女は精神の変調をきたし、収容される。著者は見舞いに行かない。そのことを作品の中で説明している。
最後の一句は、美とは「痙攣(けいれん)的なもの」だという趣旨の断言である。静的な調和ではなく、揺れ動くもの、不意に襲うものとしての美——この定義が、シュルレアリスムの美学を要約している。
主題とモチーフ
⚡ この作品の4つの主題
- 私は誰か — 冒頭の問い。自分が何者かは、自分が誰と出会うかによって決まる、という考えが展開される。
- 客観的偶然 — 意味のない偶然に見えて、内的な欲望と符合する出来事。運動の中心概念の1つ。
- 狂気と詩 — 理性の統制を離れた言葉に、詩の源泉を見る態度。
- 描写の拒否 — 小説的な描写を退け、写真で代える。
| モチーフ | 働き |
|---|---|
| パリの地名 | 実在の場所が実名で出る。虚構ではないという体裁を作る |
| 写真 | 描写の代わり。しかし人物の写真は少なく、場所が多い |
| 予感・符合 | 出来事が意味ありげに連なる。偶然を必然として読む態度 |
文体と形式
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| 人称 | 一人称。著者本人として語る |
| 時制 | 現在形が多い。出来事が起きているかのように書かれる |
| 図版 | 本文の流れに挟まれる。説明的な図ではない |
| ジャンル | 決まらない。小説とも自伝とも記録とも読める |
- 📘 客観的偶然:外から見れば偶然にすぎない出来事が、当人の内的な欲望と正確に符合すること。シュルレアリスムの中心概念の1つ。
「描写しない」という宣言は、『シュルレアリスム宣言』の中の小説批判と対応している。そこでブルトンは、部屋の様子を細々と描く小説の書き方を痛烈に批判した。『ナジャ』の写真は、その批判の実行にあたる。
原文を読む
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 難度 | 中程度。文は明晰だが、話題が飛ぶ |
| 分量 | 短い。原文で通読できる |
| 最初に読む箇所 | 冒頭の問い(数ページ) |
| 注意 | 図版込みの版で読む。写真がないと、この作品の半分が欠ける |
| 授業での扱い | 語学演習で扱われる |
分量が短く、文体も難しくないため、20世紀の作品としては原文に入りやすい。ただし話題の飛躍に慣れる必要がある。
解釈の分かれ目
| 論点 | 読みA | 読みB |
|---|---|---|
| ナジャの扱い | 他者への深い関心の記録 | 実在の女性を素材として消費している。彼女は語られるだけで、語らない |
| 見舞いに行かないこと | 制度への抵抗(病院そのものを否定する立場) | 無責任。批判が本人への責任を免除している |
| 写真の効果 | 描写の拒否という理論の実践 | 虚構性を消す効果を持ち、記録としての説得力を作っている |
| ジャンル | 決まらないこと自体が価値 | 決めないことで批判を避けているという見方もある |
| 「私は誰か」 | 主体を問い直す出発点 | 結局、語り手の自己確認に回収されている |
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ナジャの扱いをめぐる批判は、20世紀後半以降に強くなった。ジェンダーの視点からの読み直しであり、文学理論の領域で扱う主題になる。
レポートの切り口
⚡ 問いの立て方の例
- 写真は何を写しているか。建物・場所・人物・物に分類し、比率を数える。人物の写真が少ないなら、それは何を意味するか。
- ナジャの言葉は、どのように引かれているか。直接引用か、要約か。彼女自身の言葉と、著者の解釈の比率。
- 日付のある部分とない部分の文体を比べる。時制・文の長さ・断定の度合い。
- 1928年版と1963年版を比較する。何が変えられたか。改訂の方向に、後年の立場が現れていないか。
- 「私は誰か」への答えは、作品の中で与えられているか。冒頭の問いが、どこでどう扱われるかを追う。
1番目は数えるだけで始められる問いであり、写真という素材を正面から扱える点でこの作品らしい。
邦訳と参考文献
| 種類 | 内容 |
|---|---|
| 邦訳 | 岩波文庫ほかに収録。図版が入った版を選ぶ |
| 原文 | 入手可能。改訂版が流通しているので、版の確認が必要 |
| 関連 | 『シュルレアリスム宣言』(1924年)。小説批判の箇所を読むと、この作品の方法が理解できる |
| 関連作 | アラゴン『パリの農夫』(1926年)。同じくパリを歩く作品 |
⚠️ この作品で混同しやすい形
- 小説と断定する。ジャンルが決めがたいこと自体が作品の性格である。
- 写真を挿絵と考える。描写の代替であり、理論的な選択である。
- 版の違いを無視する。1928年版と1963年版がある。
- ナジャを架空の人物と考える。実在の女性が素材になっており、それが論点になる。
⚡ 第17章の通過チェック
- ブルトンの経歴と、病院勤務の経験が持つ意味を言える
- 3つの部分の構成と、日付の有無を言える
- 客観的偶然を説明できる
- 描写の拒否と写真の関係を、宣言の小説批判とつなげて説明できる
- 最後の一句が示す美の定義を言える
- ナジャの扱いをめぐる批判的な読みを説明できる
- 版が2つあることと、その扱いを言える
次章へ
次章はカミュ『異邦人』である。1942年の作品で、フランス語で読む最初の長編として最もよく選ばれる。
『ナジャ』が形式を壊すことで新しさを出したのに対し、『異邦人』は形式を極端に切り詰めることで新しさを出した。短い文、複合過去の地の文、説明されない感情。削ることによって何が生まれるか——という点で、この2作は対照的である。