19世紀|第15章 モーパッサン『脂肪の塊』— 偽善の構造
この章の狙い
要点: この作品は短い。一台の馬車と、一軒の宿。それだけで舞台が完結する。登場人物は10人。出来事は、道中の足止めと、その解決だけである。
にもかかわらず、階級と偽善(ぎぜん)の構造が完全に描かれている。短編がどう機能するかを見るのに、これ以上の教材はない。原文が短く、講読の定番でもあるので、この教材で扱う20作品の中で最も現実的に原文で読める作品にあたる。
作家 — 生涯と位置
- 📘 ギ・ド・モーパッサン(Guy de Maupassant, 1850-1893):短編の名手。300篇を超える短編と、6篇の長編を残した。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1850年 | ノルマンディーに生まれる |
| 1870年 | 普仏戦争に従軍。この経験が作品の背景になる |
| 1870年代 | 役人として働きながら、フローベールの指導を受ける |
| 1880年 | 『脂肪の塊』。この一作で評価が決まる |
| 1883年 | 『女の一生』 |
| 1885年 | 『ベラミ』 |
| 1893年 | 梅毒による精神の悪化のすえ、42歳で死去 |
フローベールは母の友人だった。弟子として、文章を厳しく直された。「凡庸な語を避け、対象を言い当てる語を探せ」という教えが、モーパッサンの文体に残っている。
作品の成り立ち
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 発表 | 1880年、自然主義の作家たちが出した短編集に収録 |
| 背景 | 普仏戦争(1870〜1871年)。ルーアンがプロイセン軍に占領された時期 |
| 反響 | フローベールが絶賛したと伝えられる |
| 位置 | この一作でモーパッサンの名が確立した |
短編集の中で最も高く評価された。同じ集にはゾラも寄稿しているが、後世に残ったのはこの一作である。
あらすじ
結末まで書いてある。
プロイセン軍に占領されたルーアンから、10人が一台の馬車で脱出しようとする。
乗り合わせたのは、葡萄酒商のロワゾー夫妻、工場主のカレ=ラマドン夫妻、ユベール・ド・ブレヴィル伯爵夫妻という3組の夫婦。それに修道女2人と、共和派の男コルニュデ。そして娼婦(しょうふ)のエリザベート・ルーセ——太っているため「脂肪の塊」と呼ばれている。
出発は早朝。雪の中、馬車は遅々として進まない。誰も食料を持っていない。やがて空腹が限界に達したとき、エリザベートだけが籠いっぱいの食料を持っていたことが分かる。
彼女は全員に分け与える。それまで彼女を蔑(さげす)んで口もきかなかった人々は、態度を変える。伯爵夫人までが親しげに話しかける。食事のあいだ、馬車の中は和やかになる。
宿場町トートで、プロイセン軍の将校に足止めされる。理由は説明されない。数日後、将校がエリザベートを求めていることが明らかになる。彼女は愛国心から拒む。
最初、同乗者たちは彼女を支持する。しかし足止めが続くと、態度が変わる。歴史上の女性を引き合いに出し、修道女までが遠回しに説く。全員が、彼女に応じるよう説得しはじめる。
エリザベートは折れる。一夜が明け、馬車は出発を許される。
そして誰も彼女に口をきかない。再び蔑まれ、無視される。今度は彼女だけが食料を持っておらず、他の全員が食べている。誰も分け与えない。
彼女は泣く。コルニュデが口笛で革命歌を吹くなか、馬車は進んでいく。
登場人物
| 人物 | 位置 |
|---|---|
| エリザベート・ルーセ | 娼婦。唯一、他人に与える人物 |
| ロワゾー夫妻 | 葡萄酒商。最も露骨に打算的 |
| カレ=ラマドン夫妻 | 工場主。上品を装いながら同じことをする |
| ブレヴィル伯爵夫妻 | 貴族。説得を主導する。最も洗練された偽善 |
| 修道女2人 | 宗教の側から説得に加わる |
| コルニュデ | 共和派。口では革命を語るが、何もしない |
⚡ 社会の縮図としての馬車
- 商人・産業家・貴族・宗教・共和派が全部そろっている。
- それぞれの階層が、別の言葉づかいで、同じことをする。
- 誰も暴力を使わない。説得だけで事は運ぶ。
主題とモチーフ
⚡ この作品の4つの主題
- 偽善 — 道徳を語る者ほど、それを利用する。修道女の参加が、その頂点にあたる。
- 階級 — 蔑む側と蔑まれる側。必要が生じたときだけ壁が消え、済むと元に戻る。
- 愛国心の使われ方 — エリザベートの拒否は愛国心による。説得する側は、その愛国心を利用して折らせる。
- 与えることの一方通行 — 彼女は2度食料を分け、2度とも報われない。構造が反復によって示される。
| モチーフ | 働き |
|---|---|
| 食事 | 2回ある。最初は彼女が与え、最後は誰も与えない。同じ形式の反復が結末を作る |
| 雪 | 閉ざされた時間。動けない状況が人を露わにする |
| 革命歌 | コルニュデの口笛。言葉だけの理想の空虚さ |
文体と形式
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| 分量 | 短編。数十ページ |
| 語り | 三人称。淡々と、評価を加えずに述べる |
| 構成 | 対称形。2つの食事の場面が枠を作る |
| 人物紹介 | 冒頭で各人の職業と財産の来歴が簡潔に示される |
評価を述べないという点で、フローベールの非人称性を受け継いでいる。語り手は誰も責めない。読者が判断するしかないように書かれている。
構成の対称性が、この作品の技術の核心である。同じ「馬車の中の食事」が2度あり、役割が反転している。この反復だけで、主題が完全に伝わる。
原文を読む
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 難度 | 低め。文が短く、語彙も限られている |
| 分量 | 短い。原文で通読できる |
| 最初に読む場面 | 冒頭の人物紹介。各人の来歴が数行ずつで示される |
| 見どころ | 2つの食事の場面を並べて読む |
| 授業での扱い | 講読の定番教材 |
この作品は、原文で通読する最初の19世紀の散文として最適である。短く、文が明晰で、しかも文学的に一級である。訳を読まずに、いきなり原文から入っても成立する数少ない作品にあたる。
解釈の分かれ目
| 論点 | 読みA | 読みB |
|---|---|---|
| エリザベートの造形 | 唯一の道徳的な人物 | 理想化されすぎているという批判もある |
| 愛国心 | 彼女の拒否は真正な愛国心 | 職業と結びついた立場の表明でもあり、単純ではない |
| コルニュデ | 無力な理想主義への皮肉 | 唯一、説得に加わらなかった人物として評価する読みもある |
| 語り手の中立 | 徹底している | 人物の描写に評価が滲(にじ)んでいる(「脂肪の塊」という呼称そのものが例) |
| 結末 | 完璧な皮肉 | 図式的すぎるという評価もある |
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コルニュデの評価が分かれる。彼は説得に加わらなかったが、助けもしなかった。行動しない理想主義をどう見るかが問われる。
レポートの切り口
⚡ 問いの立て方の例
- 2つの食事の場面を対比する。語彙・文の長さ・誰が誰に話しかけるかを表にする。短編なので全数調査ができる。
- エリザベートの呼ばれ方を集める。「脂肪の塊」「彼女」「マドモワゼル」。呼称の変化が態度の変化と対応しているか。
- 説得の台詞を話者ごとに分類する。商人・貴族・修道女が、それぞれどんな論法を使うか。
- 語り手の評価が滲む箇所を探す。中立を装いながら、形容詞の選択に判断が現れていないか。
- 冒頭の人物紹介の順序。誰から紹介され、どこに何行割かれているか。
この作品は分量が短いため、レポートで全数調査ができる数少ない対象である。「数えられる」ことが、論証の強さに直結する。
邦訳と参考文献
| 種類 | 内容 |
|---|---|
| 邦訳 | 文庫に収録。短編集の形で入手できる |
| 原文 | 全文が公開されている。学習用の注釈つき版もある |
| 関連 | 同じ短編集に収録された他の作家の作品。自然主義の集団としての姿勢が分かる |
| 事典 | 『フランス文学小事典(増補版)』の該当項目 |
⚠️ この作品で混同しやすい形
- 長編の一部と考える。独立した短編である。
- 戦争小説と考える。戦争は状況であって、主題は社会の偽善にある。
- 修道女を巻き込まれただけの人物と考える。説得に加わっている。
- 語り手を完全に中立と考える。呼称や形容詞に評価が滲む箇所がある。
⚡ 第15章の通過チェック
- モーパッサンの経歴と、フローベールとの関係を言える
- 発表の場と、その一作で評価が決まったことを言える
- 筋を、出発・食事・足止め・説得・出発・無視の順で言える
- 乗客の構成を、階層ごとに言える
- 4つの主題を言え、2つの食事の対称性を説明できる
- 語りの姿勢と、それがフローベールから受け継いだものを言える
- コルニュデの評価が分かれる理由を言える
次章へ
次章はプルースト『失われた時を求めて』である。この教材で最も長い作品になる。
『脂肪の塊』が数十ページで完結するのに対し、こちらは全7篇、日本語訳で十数冊。短編の技術と、長編の極北。この2つを並べて読むと、分量そのものが方法であることが分かる。プルーストの長さには、長さでなければ書けないものがある。