19世紀|第10章 ユゴー『レ・ミゼラブル』— 法と正義のずれ
この章の狙い
要点: この作品は長い。そして、筋と関係のない章が大量にある。ワーテルローの戦いに数十ページ、修道院の歴史に数十ページ、パリの下水道にも数十ページ。初めて読む人は、ここで必ず脱落する。
だが、その脱線こそがこの作品の性格である。小説を、社会と歴史をまるごと収める器にしようとしている。読み方を決めるとは、どこを読み、どこを飛ばすかを決めることにほかならない。この章はその判断のための材料を並べる。
作家 — 生涯と位置
- 📘 ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo, 1802-1885):詩・小説・戯曲のすべてで頂点に立った作家。政治家でもあり、19世紀フランス文学の中心人物である。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1802年 | 生まれる。父はナポレオン軍の将軍 |
| 1827年 | 『クロムウェル』序文。ロマン主義演劇の綱領(こうりょう)となる |
| 1830年 | 『エルナニ』の戦い。劇場で古典派と衝突する |
| 1831年 | 『ノートル=ダム・ド・パリ』 |
| 1843年 | 娘レオポルディーヌの水死。以後10年近く沈黙する |
| 1845年 | 『レ・ミゼラブル』の執筆に着手(当時の題は別) |
| 1851年 | ルイ・ナポレオンのクーデタ。亡命(ぼうめい)する |
| 1862年 | 『レ・ミゼラブル』刊行。亡命先で完成 |
| 1870年 | 帰国。1885年、国葬で送られる |
執筆は17年にわたって中断をはさんでいる。1848年の革命で政治に深く関わり、亡命し、その経験が作品に反映された。書き始めた時と書き終えた時で、作者の政治的立場が変わっている。
作品の成り立ち
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 構成 | 5部。それぞれが独立した題を持つ |
| 分量 | 日本語訳で文庫4〜5冊分 |
| 刊行 | 1862年、複数の国で同時に近い形で出された |
| 反響 | 大衆的な成功と、批評家からの冷淡な評価が同時に起きた |
当時の批評は好意的ではなかった。通俗的で、説教くさく、構成が緩いと見なされた。現在の高い評価は、後世に確立したものである。
あらすじ
結末まで書いてある。
ジャン・ヴァルジャンは、飢えた甥のためにパン一切れを盗み、脱走を重ねて19年を徒刑場(とけいじょう)で過ごした。出獄しても、黄色い旅券のせいでどこにも泊まれない。
ミリエル司教だけが彼を迎え入れる。ヴァルジャンは銀の食器を盗んで逃げるが、捕まって連れ戻される。司教は「それは私が贈ったものだ」と言い、さらに燭台(しょくだい)を与える。この出来事が彼を変える。
名を変え、実業家として成功し、市長になる。工場で働いていたファンチーヌは、隠し子コゼットのことで解雇され、髪と歯を売り、娼婦(しょうふ)になって病む。ヴァルジャンは彼女を保護し、娘を引き取ると約束する。
だが警官ジャヴェールが、彼の正体に気づく。別人がヴァルジャンとして裁かれようとしたとき、彼は法廷に現れて自ら名乗る。再び追われる身になり、テナルディエ夫妻に虐待されていたコゼットを引き取って、パリへ逃げる。
年月が過ぎる。成長したコゼットと、共和派の青年マリユスが愛し合う。1832年、共和派の蜂起(ほうき)が起こり、市街にバリケードが築かれる。
ヴァルジャンはバリケードへ向かう。捕らえられていたジャヴェールを、彼は逃がす。蜂起は鎮圧され、負傷したマリユスを背負って下水道を通り、脱出する。
法と、自分が見逃されたという事実の間で引き裂かれたジャヴェールは、セーヌ川に身を投げる。
マリユスとコゼットは結婚する。ヴァルジャンは過去を打ち明け、遠ざけられる。やがて誤解が解け、二人が駆けつけたとき、彼は静かに死ぬ。
登場人物
| 人物 | 位置 |
|---|---|
| ジャン・ヴァルジャン | 元徒刑囚。名を変えながら生きる |
| ミリエル司教 | 冒頭で彼を許す。作品の倫理の起点 |
| ジャヴェール | 警官。法をそれ自体として信じる |
| ファンチーヌ | 工場労働者。社会に押しつぶされる |
| コゼット | ファンチーヌの娘。ヴァルジャンが育てる |
| マリユス | 共和派の青年。作者自身の政治的遍歴(へんれき)が投影されている |
| テナルディエ夫妻 | 宿屋の主人。貧しさが人を悪くする例として置かれる |
| ガヴローシュ/エポニーヌ | テナルディエの子どもたち。バリケードで死ぬ |
主題とモチーフ
⚡ この作品の4つの主題
- 法と正義のずれ — ヴァルジャンは法的には犯罪者であり続ける。ジャヴェールは法を守って正しく、それゆえに間違っている。
- 社会が作る悲惨 — 「貧困が男を、飢えが女を、暗黒が子どもを堕落させる」。個人の悪ではなく制度の問題として提示される。
- 贖罪(しょくざい)と変容 — 司教の行為が人を変える。変わりうるという前提が作品を支えている。
- 歴史の中の個人 — ワーテルロー、1832年の蜂起。個人の運命が歴史の動きと交差する。
| モチーフ | 働き |
|---|---|
| 燭台 | 司教の贈り物。最後まで持ち続ける |
| 下水道 | パリの地下。社会が隠すものの通り道であり、救出の経路になる |
| 名前 | ヴァルジャン、マドレーヌ、フォーシュルヴァン。名を変えることが生き延びる手段になる |
文体と形式
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| 語り | 三人称。語り手が頻繁に介入し、意見を述べる |
| 脱線 | ワーテルロー、修道院、隠語(いんご)、下水道。それぞれ独立した論説として読める |
| 対比 | 光と闇、地上と地下、法と恩寵(おんちょう) |
| 調子 | 雄弁。演説に近い文体が随所に現れる |
⚡ 脱線をどう扱うか
- 初読では飛ばしてよい。筋は追える。
- 2度目に読むときは、脱線こそが主題を語っていると分かる。下水道の章は「社会が隠すもの」の議論であり、ヴァルジャンの脱出と主題で結びついている。
- レポートで扱うなら、脱線1つに絞る。分量が独立しているので、それだけで論が成立する。
原文を読む
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 難度 | 中程度。文は明快だが、語彙が広い |
| 分量 | 膨大。原文での通読は現実的でない |
| 標準的な進め方 | 訳で全体を読み、名場面を原文で読む |
| 最初に読む場面 | 司教が銀の食器を与える場面(第1部)。短く、作品の核心にあたる |
| 授業での扱い | 抜粋(ばっすい)で扱われる |
解釈の分かれ目
| 論点 | 読みA | 読みB |
|---|---|---|
| 政治的な立場 | 民衆の側に立つ革命的な作品 | 博愛主義にとどまり、体制の変革を求めていない |
| ジャヴェールの死 | 法の限界の証明 | ヴァルジャンの倫理が勝ったという単純な図式への疑い |
| 脱線の評価 | 全体小説としての野心 | 構成の破綻(はたん)。当時の批評はこう見た |
| 女性の描かれ方 | 犠牲者への共感 | ファンチーヌもコゼットも受動的であり、行動するのは男性だけ |
| 通俗性 | 大衆に届いたことの価値 | 感傷的で図式的だという批判 |
← 横に動かして読めます →
「通俗か芸術か」という評価の揺れそのものが、この作品の受容史である。評価が時代によって変わることの例として、文学史の議論でよく使われる。
レポートの切り口
⚡ 問いの立て方の例
- 脱線の章を1つ選んで分析する。下水道の章が、作品全体の主題とどう接続しているか。
- ジャヴェールの台詞を全て抜き出す。法について語る語彙が、最後にどう変わるか。
- 語り手の介入を数える。「読者よ」と呼びかける箇所を集め、どんな場面で介入が起きるかを分類する。
- 名前の変化を追う。ヴァルジャンが名乗る名と、そのときの立場の対応。
- ファンチーヌの転落の各段階。何を売り、何を失うか。社会が作る悲惨という主張が、どこまで具体的に示されているか。
1番目は、この作品でしかできない問いである。脱線を欠陥ではなく対象として扱うことが、研究的な読みの入口になる。
邦訳と参考文献
| 種類 | 内容 |
|---|---|
| 邦訳 | 複数ある。完訳と抄訳(しょうやく)があるので、目的で選ぶ |
| 原文 | 全文が公開されている。場面単位で読める |
| 舞台・映像 | ミュージカルと映画が広く知られる。筋の取捨選択を比べると、原作の何が省かれるかが分かる |
| 事典 | 『フランス文学小事典(増補版)』の該当項目 |
⚠️ この作品で混同しやすい形
- ミュージカルの筋と同じだと考える。脱線の章と論説部分は、舞台では丸ごと省かれている。
- 脱線を無意味と考える。主題と接続しており、レポートの対象になる。
- 当時から高く評価されたと考える。大衆的成功と批評的冷遇が同時に起きた。
- ジャヴェールを単なる悪役と考える。法をそれ自体として信じる人物であり、悪意はない。
⚡ 第10章の通過チェック
- ユゴーの生涯の節目を4つと、亡命の時期を言える
- 執筆が17年にわたったことと、その間の変化を言える
- 筋を、司教・市長・法廷・バリケード・下水道の順で言える
- 主要人物6人の位置を言える
- 4つの主題を言え、法と正義のずれを説明できる
- 脱線の章を3つ挙げ、扱い方の方針を言える
- 当時の評価と現在の評価の違いを言える
次章へ
次章はスタンダール『赤と黒』である。同じ19世紀前半、同じく若者が社会を上がろうとする物語になる。
だが視点が正反対である。『レ・ミゼラブル』が社会の全体を外から描くのに対し、『赤と黒』は一人の青年の意識の内側に入り込む。同じ時代を、外枠から見るか内側から見るか——という対比で読むと、19世紀の小説の2つの方向が見えてくる。