近世|第4章 17世紀(1)— デカルトと方法
この章の狙い
要点: デカルトは、懐疑から始める点ではモンテーニュと同じだが、行き先が正反対である。判断を保留したまま留まるのではなく、疑いを徹底することで、疑いえない一点に到達しようとした。
そこから出てきたのが、「考えている私」を出発点に置くという主張である。この主張が、以後300年の哲学の土台になり、20世紀にはその土台自体が批判される(第18章)。
年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1596年 | デカルト誕生 |
| 1618〜1620年 | 各地を移動し、諸学を検討する |
| 1637年 | 『方法序説』(フランス語で刊行) |
| 1641年 | 『省察』(ラテン語) |
| 1644年 | 『哲学原理』 |
| 1649年 | 『情念論』 |
| 1650年 | スウェーデンで死去 |
| 17世紀後半 | デカルト的な考え方が広く受け入れられる。同時に批判も起きる |
方法という発想
- 📘 方法:真理に到達するための、あらかじめ定められた手順のこと。デカルトは、才能ではなく手順によって知が得られると考えた。
『方法序説』の冒頭は、公有の一文として引ける。
⚡ « Le bon sens est la chose du monde la mieux partagée. »
- 訳:良識は、この世で最もよく分け与えられているものである。
- 能力の差ではなく、使い方の差だという主張につながる。
- だからこそ「方法」が要るという導入になっている。
- フランス語で書かれたことも重要にあたる。学問の言語であるラテン語ではなく、俗語で哲学を書いた。
⚡ 4つの規則
- 明証(めいしょう) — 明晰(めいせき)かつ判明に真と認めたものだけを受け入れる。
- 分析 — 問題をできるだけ小さな部分に分ける。
- 総合 — 単純なものから複雑なものへ、順序立てて進む。
- 枚挙(まいきょ) — 見落としがないかを網羅的に確かめる。
方法的懐疑
確実な出発点を得るために、疑えるものをすべて疑う。
| 段階 | 疑うもの | 理由 |
|---|---|---|
| 1 | 感覚 | 感覚は誤ることがある |
| 2 | 外界の存在 | 夢と現実を区別できないかもしれない |
| 3 | 数学的な真理 | 欺く力があれば、これも誤らされうる |
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⚡ そして残るもの
- 疑っているあいだも、疑っている私は存在している。
- « Je pense, donc je suis. »(私は考える、ゆえに私は存在する。)
- これは推論ではなく、直観された一点だとされる。ここから体系を組み立て直す。
- 📘 方法的懐疑:真理に到達するために、あえて意図的に疑うという手続きのこと。懐疑そのものが目的ではない点で、モンテーニュの懐疑とは違う。
⚠️ モンテーニュとの違いを押さえる
- モンテーニュ — 判断を保留し、その状態にとどまる。
- デカルト — 疑いは手段であり、確実な基礎に到達したら止める。
- 同じ「懐疑」という語でも、機能が違う。概念の履歴の代表例にあたる(第1章)。
心身の二元論
- 📘 二元論:世界を、考えるもの(精神)と広がりを持つもの(物体)という、まったく性質の違う2つの実体に分ける考え方のこと。
| 精神 | 物体 | |
|---|---|---|
| 本質 | 考えること | 広がりを持つこと |
| 分割 | できない | できる |
| 認識 | 直接に知られる | 感覚と理性を通して知られる |
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⚡ この区分の帰結
- 自然は物体の世界として、数学的に扱える。近代科学の前提が用意される。
- 動物は機械のようなものとされた。この点は当時から強く批判された。
- 心と体はどうつながるのかという難問が残る。デカルト自身も明快には答えられなかった。
- この難問が、20世紀の身体をめぐる議論の出発点になる(第13章)。
神の存在と、循環の問題
デカルトは体系を組み立て直すために、神の存在を証明しようとする。
⚠️ 循環しているという批判
- 明晰判明に認識したものは真であるという規則を保証するために、欺かない神を持ち出す。
- しかし神の存在を証明する論証そのものが、明晰判明さに依拠している。
- これを「デカルトの循環」と呼び、同時代から指摘されてきた。
- デカルト側の応答もあるが、決着していない。
情念
『情念論』は、感情を機械的な仕組みとして説明しようとした著作である。
⚡ 要点
- 情念は身体の運動が精神に引き起こすものとして説明される。
- 理性によって情念を統御できるという方向を示した。
- この枠組みが、同時代の悲劇と道徳論の背景になっている(第5章、作品と作家の領域)。
批判と論点
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 循環 | 神の証明と明証の規則が互いに支え合っている |
| 心身の結合 | 性質の違う2つが、どうして作用し合えるのか |
| 動物機械論 | 動物に感覚がないという帰結を、当時から多くの人が拒んだ |
| 出発点としての「私」 | 20世紀に最も強く批判された点。「私」は出発点ではなく、言語や構造や無意識によって作られるのではないか(第16〜18章) |
4番目が、この教材で最も重要な論点にあたる。デカルトの「私」を疑うことが、20世紀のフランス思想の共通の出発点になる。
文学とのつながり
⚡ 17世紀の作品を読むときに要る背景
- 明晰さという価値 — 古典主義の言語観と響き合う。明晰でないのはフランス語ではないという有名な言い方が、後の世紀に生まれる。
- 理性と情念の対立 — 悲劇の枠組みそのものにあたる。情念は理性で統御されるべきものとして、しかし統御できないものとして描かれる。
- フランス語で哲学を書いたこと — 学問と文学の言語が近づく。思想が読者を持つようになる。
- 自伝的な語り — 『方法序説』は自分の遍歴を語る形をとっている。哲学書でありながら、語りの形式を持つ。
⚠️ この時代で混同しやすい形
- デカルトの懐疑をモンテーニュの懐疑と同じと考える。前者は手段、後者は態度そのものである。
- 「我思う、ゆえに我あり」を推論と考える。デカルト自身は直観された一点として扱っている。
- 二元論を「心が大事、体は軽い」という主張と考える。性質の違う2つの実体を区別する主張にあたる。
- 『方法序説』をラテン語で書かれたと考える。フランス語である。
デカルトの受容と、反デカルト
デカルトの主張は、そのまま受け入れられたのではない。
| 時期 | 受け止められ方 |
|---|---|
| 17世紀後半 | 広く受け入れられる一方、教会と大学から警戒された |
| 17世紀後半 | パスカルは、その体系の射程を限定的に見た(第5章) |
| 18世紀 | 経験を重んじる立場から批判される |
| 19世紀 | フランス哲学の出発点として教育に組み込まれる |
| 20世紀 | 現象学と構造主義が、その前提を正面から批判する(第13章・第16章) |
⚡ 「デカルト的」という語の使われ方
- 明晰さと体系性を指す褒め言葉として使われることがある。
- 同時に、身体と歴史を軽視する枠組みへの批判の語としても使われる。
- どちらの意味で使っているかを明示しないと、議論が噛み合わない。
フランス語で哲学を書くということ
⚡ 1637年の選択の意味
- 当時の学問の言語はラテン語だった。大学の外の読者に向けて書くという選択にあたる。
- 序文で、その理由を自ら述べている。理性は万人に共有されているという主張と一貫している。
- 哲学が「読者を持つ」ようになる。サロンと世論の前提が用意される(第6章)。
- 同時に、フランス語で抽象的な議論をする語彙が作られていった。この蓄積が18世紀を可能にする。
⚠️ 『省察』はラテン語である
- 同じ思想家でも、著作によって言語を使い分けている。
- 『方法序説』はフランス語、『省察』はラテン語にあたる。
- 想定する読者が違う。この使い分け自体が、当時の知の状況を示している。
⚡ 第4章の通過チェック
- 方法の4つの規則を言える
- 方法的懐疑の3段階を言える
- デカルトの懐疑とモンテーニュの懐疑の違いを説明できる
- 二元論の2つの実体と、その本質を言える
- デカルトの循環と呼ばれる批判を説明できる
- 20世紀に最も強く批判された点を言える
- 『方法序説』がフランス語で書かれたことの意義を言える
次章へ
次章は17世紀(2)— パスカルとモラリストである。デカルトとは正反対の方向から人間を見る。
理性で到達できる範囲は狭いと考え、人間の弱さと矛盾を見つめた。そしてモラリストたちが、宮廷での観察から人の動機の底にあるものを書き出す。17世紀の文学の人間像は、この側から来ている。