20世紀|第13章 現象学の受容 — 意識と身体
この章の狙い
要点: 1930年代、ドイツで生まれた現象学という方法が、フランスに入ってくる。
出発点は単純な指摘にあたる。意識は、常に「何かについての」意識である。空っぽの意識があって、そこに対象が入ってくるのではない。意識と世界は、はじめから結びついている。
この指摘から、世界と身体の捉え直しが始まり、次章の実存主義の土台になる。
年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1900年前後 | ドイツで現象学が形を取る |
| 1920年代 | 存在をめぐるドイツの哲学が発表される |
| 1928年 | パリで現象学の講演が行われる |
| 1930年代 | フランスの若い世代がドイツで学び、方法を持ち帰る |
| 1930年代 | ヘーゲルの講義が行われ、大きな影響を与える |
| 1943年 | サルトルの主著(第14章へ) |
| 1945年 | メルロ=ポンティ『知覚の現象学』 |
| 1940〜50年代 | 現象学が戦後フランス哲学の共通の言語になる |
| 1960年代 | 構造主義の台頭により、位置が変わる(第16章) |
志向性という出発点
- 📘 志向性:意識が常に「何かについての」意識であるという性質のこと。見ることは何かを見ること、考えることは何かを考えることであり、対象を持たない意識はない。
⚡ この指摘の帰結
- 意識を「内側の容器」として考える見方が退けられる。
- 主観と客観をあらかじめ分けてから、どうつなぐかを問うという設定自体が誤りだとされる。デカルト以来の問題設定への批判にあたる(第4章)。
- したがって、まず現れているものをそのまま記述することから始める。
- 説明する前に記述するという方針が、現象学の方法の核心になる。
- 📘 判断の停止:世界が存在するかどうかという問いをいったん括弧に入れ、現れているものを、現れているとおりに記述するという手続きのこと。
⚠️ 懐疑との違い
- 疑うのではなく、判断を保留する。存在を否定するわけではない。
- モンテーニュの保留とも、デカルトの方法的懐疑とも違う(第3章・第4章)。目的が記述の準備にある。
- 同じ語が3つの異なる機能を持つ例にあたる(第1章の概念の履歴)。
生きられた世界
⚡ 科学の世界と、生きられた世界
- 科学が記述する世界は、測定と抽象を経て作られたものである。
- 私たちが実際に生きている世界は、それに先立っている。「太陽が沈む」という経験は、地動説を知っていても消えない。
- 現象学は、後者を軽視せず、記述の対象にする。
- むしろ科学の世界は、生きられた世界の上に築かれているとした。
この論点が、19世紀の実証主義への応答になっている(第10章)。
身体
メルロ=ポンティは、身体を思考の中心に置いた。
⚡ 主張の要点
- 身体は、私が持っている物ではなく、私が世界に接する仕方そのものである。
- 知覚は、受け身の受容ではない。身体が動き、方向づけることで成り立つ。
- したがって心と物という二分法(第4章)は、身体において崩れる。身体は物であると同時に、感じるものにあたる。
- 習慣は、身体が世界を扱う仕方が定着したものとして説明される。
| デカルトの枠組み | 身体の現象学 |
|---|---|
| 精神と物体という2つの実体 | どちらにも収まらない身体 |
| 私は自分の身体を「持っている」 | 私は自分の身体「である」 |
| 知覚は受け身 | 知覚は身体の運動と切り離せない |
| 世界は認識の対象 | 世界は住まわれている場 |
⚠️ 「身体を重視した」で終わらせない
- 要点は、心身の二分法そのものを問い直したことにあたる。
- 感覚器官の話ではない。世界との関わり方の記述である。
- 芸術と知覚の関係についても論じており、絵画をめぐる考察が知られている(文化と芸術の領域)。
ヘーゲルの受容
1930年代のパリで行われたヘーゲルの講義が、一世代に大きな影響を与えた。
⚡ 何が受け取られたか
- 自己意識は、他者の承認を通じてしか成り立たないという論点。
- 主人と奴隷の関係についての分析。支配する側が、承認を得られないという逆説を含む。
- 歴史が対立を通じて進むという枠組み。
- これらが、戦後の実存主義とマルクス主義の受容の下地になった(第14章・第17章)。
⚠️ 講義を通じた受容という事実
- 原典の直接の読解ではなく、特定の解釈を通じて受け取られた。
- したがって「フランスのヘーゲル」は、独自の色を帯びている。
- 思想が国境を越えるとき、翻訳と講義と解釈を経るという一般的な事情の例にあたる。
批判と論点
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 記述はどこまで中立か | 「そのまま記述する」と言うが、記述には既に枠組みが入っていないか |
| 意識中心主義 | 意識から出発すること自体が、後に批判される(第16章・第18章) |
| 他者の問題 | 他人の意識に、どこまで接近できるのか |
| 歴史と構造 | 生きられた経験の記述は、社会の構造をどこまで捉えられるか |
2番目が決定的である。構造主義は、意識に現れないところで働く仕組みを主題にすることで、現象学の前提を外していく(第16章)。
文学とのつながり
⚡ 文学の分析にどう効くか
- 記述という方法 — 説明する前に、現れているとおりに書く。精読の態度と重なる(文学研究の方法の領域)。
- 知覚の描写 — 光・音・触覚の記述を、単なる背景ではなく世界との関わり方の記述として読める。
- 身体の描写 — 人物の身体の記述を、性格の説明ではなく世界への接し方として読む。
- 他者 — 他人が現れる場面を、認識の問題として扱える。
- 戦後の小説と演劇は、この語彙を同時代の共通の言語として持っていた。
⚠️ この章で混同しやすい形
- 志向性を「意図」と考える。意識が常に対象を持つという性質を指す。
- 判断の停止をデカルトの懐疑と同じと考える。否定ではなく保留であり、記述の準備にあたる。
- 現象学をドイツだけの哲学と考える。フランスで独自に展開した。
- 身体の議論を「心より体が大事」という主張と考える。二分法そのものへの問い直しである。
用語をどう使うか
現象学の用語は、日常語と形が同じで意味が違うものが多い。
| 用語 | 日常の意味 | 現象学での意味 |
|---|---|---|
| 志向性 | 意図 | 意識が常に対象を持つという性質 |
| 現象 | 表面的な現れ | 意識に現れているもの。背後の実在と対比されない |
| 地平 | 見晴らし | 経験を可能にしている、意識されない背景 |
| 世界 | 地球・社会 | 経験がそこで成り立つ全体 |
← 横に動かして読めます →
⚠️ レポートで使うときの注意
- 必ず定義してから使う。定義せずに使うと、日常の意味で読まれる。
- 「現象学的に読む」という言い方だけでは何も言っていない。何をどう記述するのかを示す。
- 入門書と事典で位置を確かめてから使う(第1章)。
記述という方法の限界
⚡ どこまで有効か
- 強み — 説明の枠組みを先に持ち込まず、経験の細部を取り出せる。
- 弱み — 記述には、すでに枠組みが入っている。「そのまま」というのは理念にすぎないという批判がある。
- 弱み — 社会の構造や歴史を捉えにくい。個人の経験の記述にとどまりやすい。
- この2つ目の弱みが、構造主義の出発点になる(第16章)。
⚡ それでも残るもの
- 精読の態度としては、現在も有効にあたる(文学研究の方法の領域)。
- 観察を先に、解釈を後にという順序は、この方法と同じ構えを持つ。
- 「説明する前に記述する」は、レポートの書き方の原則としても使える。
⚡ 第13章の通過チェック
- 志向性とは何か、その帰結を3つ言える
- 判断の停止が、懐疑とどう違うかを言える
- 生きられた世界と科学の世界の関係を説明できる
- 身体をめぐる主張を、デカルトの枠組みと対比して4点言える
- 1930年代のヘーゲル受容で何が受け取られたかを3つ言える
- 現象学への主要な批判を3つ言える
- この方法が文学の分析にどう効くかを3つ言える
次章へ
次章は実存主義である。現象学の方法を、人間の生き方の問題に接続する。
人間はあらかじめ本質を持たない。先に存在し、後から自分が何であるかを作る。したがって自由であり、その自由から逃れられない。この主張が、戦後の数年間、哲学の枠を超えて広がった。